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2015年11月14日 (土)

【神は弱さの中にあり】NHK Eテレビ『こころの時代』を見る。

NHK Eテレビ『こころの時代』の要約。うーん、上手く聴き取れないところ、相変わらず多し。
【放映日】】2015年10月25日(日)
【タイトル】神は弱さの中にあり
【話し手】木原活信(同志社大学教授)
【聞き手】住田功一

<ナレーション:京都の同志社大学。アメリカで学んで、キリスト教の洗礼を受けた新島襄によって1875年(明治8年)に設立されました。>
(木原教授の大学での講義姿が映し出される。)
<ナレーション:教授の木原活信さん。この大学で大学院まで進んで、社会福祉を学んだ後に、カウンセラーを経て、教員になりました。海外にも留学し、今は母校で福祉を志す学生を教えています。これまで30年。社会福祉の研究と実践に取り組んできました。その体験で見えてきたものは、人間の持つ弱さに意識を向けることの大切さだと言います。>
あえて今、弱さということを、私は強調したい。それは、福祉の中で、弱さということを強調したいと。そうすることによって、社会の静かな変革につながってくる、と私は信じています。
(京都市・山科区の精神障害者福祉施設「からしだね館」の映像が流れ――)
<ナレーション:この日、木原さんは、施設に通う人の生の声を聴くために、施設を訪ねました。木原さんにとって、その時代の福祉の在り様を知るためのフィールドワークは、欠かすことのできない活動の一つです。>
時々勘違いされるのですが、利用者の人を“弱い”と、そういう話をしているのではなく、むしろ知っておきたいのは、援助する側(ソーシャルワーカー、カウンセラーとか、牧師、医者など)、そういう立場に立つ人(教師も含め)、その人にとって「強がっていないですか?」という問いがあります。
<ナレーション:木原さんは、クリスチャンです。キリスト教の根底には、人間の弱さを認めることがあると考えています。社会福祉に取り組んできた自らの活動を、“援助する側” と “援助される側”、双方の弱さと向き合う歩みと捉えるようになりました。人が弱さと向き合い、自分の弱さを認めるとは、どういうことか。>
(ここからは、スタジオ。聞き手が木原さんに質問。)
聞き手:著書の中でも、“弱さ”がキーワードで出てきます。どういった場面の、どういうことが、“弱さ”なのでしょうか?

例えば、教師をしていたら、どうしても教師は、“イイかっこ”したいわけです。真面目で勉強家だという像を映したい。しかし、そうやればやるほど、学生との距離は離れる。また家庭でも、3人の父親でして、その子どもにも、“イイかっこ”したい。そうじゃなく、ある時、自分の失敗とか弱さを話したことがある。そうしたら自慢話より、子どもは食い入るように聴いていた。そこで、近づいたなという気がした。熱心なクリスチャンホームで育ったので、食事の前には、お祈りをしなさいと教えられました。で、小学校に行っても、食事のお祈りをするわけですが、それを友だちが冷やかす。綽名もザビエルだったり。それで、段々と恥ずかしいという思いが出てきて、人と違っているのが嫌なんです。祈ることを嫌がる気持ちと、それでも祈らなければという思いもあり、葛藤があった。そういうことも、子どもに話すと、輝く目で聴いている。「この子らも、それなりに嫌な思いをしているんだろうな」と。自分の弱さをぽんと言うことによって、ずっと近づいてくるものはある。

(木原さんが毎週通っている、京都市右京区の西京極キリスト集会で、聖書のメッセージを伝える木原さんの映像が流れ――)
<ナレーション:木原さんは両親共に敬虔なクリスチャンの家庭に育ちました。子どもの頃からキリスト教文化や聖書の教えに親しみ、自然と信仰の道に入ったと言います。この幼い頃からの信仰が人の持つ弱さに目を向ける姿勢を育んだと。>
少年、青年時代、強さに憧れ、柔道チャンピオンになるぞとか。強いことというのが、私にとっての憧れだった。ところが、上手くいかないことが多い。その中で、本当の意味で、弱さという、自分の歩みの中で、その時にこそ、神がそこにおられたということを、ますます実感します。その時は、気がつかないかもしれないが、自分の人生を振り返った時に、自分の儚さ、虚しさとか弱さとかに、跪くお方がおられて、その時初めて、神様の力というものを、恵みに感謝するということが、私の人生の中でありました。それは、ある種自分の弱さに気付く。弱いんだと言っていいんだと、今、つくづく感じて、そこには、イエス・キリストのお姿を重ね合わせて、イエス・キリストは弱さに同情できないお方ではなく、自らも苦しみ、試練に遭い、弱さを体験し、その中にあるからこそ、同情できるお方であると、今、痛感しています。

(集会場の会衆席で一人、聖書を黙読する木原さんの映像が流れ――)
<ナレーション:イエスが見せた人の弱さに寄り添う姿勢。そして弱さの中に見える神の働き。木原さんは、この弱さの中で働く神の力を、聖書の言葉から学びました。その言葉のひとつは、使徒パウロが、自分の弱さに苦しむ中で得た、神の啓示を書きとめた手紙の一節にあります。>
コリントⅡ12:9で、使徒パウロが言った言葉、「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」という、びっくりするようなメッセージを書いている。「弱さのうちに完全に現れる。」ですから、 “強い” ということは、逆に言うと、神の支えは必要ないとなる。ところが、あなたに頼らなければ、生きていけない、という弱さ、赤ちゃんがお母さんに捨てられたら、生きていけない、その弱さの内に、神の力は、完全に現れる、ということが啓示されている。 一方的に強くて、完全で潔癖な人って、案外近づきにくい。ところが、隙だらけで、いつも肝心なところで失敗する、そういう人の方が近づきやすい。福祉のことで言えば、福祉を利用している人は弱い、と言っているのではなく、人間共通のものとして言っている。援助する・支える人の弱さを示すことで、近づきやすくなる。カナダのラルシュ共同体にいた、ヘンリ・ナウエン(1932-1996 神学者、ハーバード大学教授)が“傷ついた癒し人”ということを言っている。自分自身の中に傷を持っている。その傷が他人を癒す。そういう逆説的な話をしている。これはナウエンの経験というより、聖書の中で、イエスの姿の中に明らかにされている。だから、援助する側は強がってみせることはないと、肩の荷が下りた気がしている。

<ナレーション:司祭で神学者、介護にも携わったヘンリ・ナウエンが称えた“傷ついた癒し人”。それを象徴する光景を、聖書のイエスの行動に見ます。当時差別を受けていたサマリア人の中で、特に大きな問題を抱えて暮らしていた女性が、イエスによって、苦しみや悲しみから解き放たれる場面です。>
ヨハネ福音書にサマリアの女という記事があります。ユダヤ人からは排除の対象になった女性で、何か曰くつきの、人目を避けならない事情があった女性ですが、その女性に近づいたものは誰かといえば、イエスでした。その女性にイエス自らが「水を飲ませて下さい」とお願いしている。援助する側とは逆転しています。“傷”“弱さ”というものは、嫌なもの、隠したいものなんだけど、そこから関係性が生まれてくる可能性がある。援助する側の立場に立つ者が忘れがちなことで、相手は弱い存在で、自分は大丈夫な人、だから助けてあげるよ、という上から目線ではなく、福祉のソーシャルワーカーやカウンセラーや指導的立場に立つ人にも、参考になる事柄と痛感しています。

<ナレーション:木原さんは、1965年、福岡県に生まれました。4人兄弟の末っ子として、この世に生を受けた木原さんですが、その誕生には両親の大きな決断があったと言います。>
アルバムの冒頭に、母のメッセージがありまして、「活信君、貴方が生まれる前、母さんは大変だったの。先生は生む事を反対されたの。でも母さまも父さまも、神様におゆだねし、祈りつつ貴方を生んだのよ。死ぬはずだったのに、生まれたから、信じて活きた、と云う意味で活信と名づけたのです」と書いてあります。母のお腹に宿った時は、母にはまだ見えない。けれども、まだ見えない私自身を愛おしいと思い、生みたいと。愛情深い親でしたから、私が将来どんな活躍をするとか、どんな人生を送るかとか、そんなことまったく関係ない。お腹にいる命は、神様から与えられた命だから、生みたいと。私は、この話を聴いた時、イエスの例え話。99匹の羊の中の一匹の迷える羊のことを思った。私は、この一匹の羊としての愛を向けられた。

<ナレーション:両親からの自立を決意し、福岡を離れ、京都の同志社に進んだ時、父親から一冊の聖書を贈られた。>
創世記から黙示録まで、もう一遍本気で読んでみよう。これまでは教えられて読むという形だったのが、真剣に読もうという覚悟をしました。それまでは、必死に神にしがみついている信仰。手も力んでいて、捨てられまいとする、そういう生き方の信仰の中に自分はいた。定義すると、“律法的な生き方”。それは、“~しなければならない”と自己規制するばかりではなく、やっていない人を批判し、他者にも厳しかった。それで他人をずいぶん傷つけてしまった。しかし、聖書を本当に読むうちに、「本当の姿は、そうじゃないんだ」と。先程の例でいうと、“しがみついている”のではなく、“抱きかかえられている” しがみつこが離そうが、それはあまり関係ない。聖書の中でパウロが、ユダヤ教の律法の中で何とかしなければならないという生き方から、イエスに出会って回心するというところと似ている部分がある。私の中で、本当の信仰は、そういう抱きかかえられている姿である、とわかったら、肩の荷が下りて、本当に感謝と喜びが湧いてきた。

<ナレーション:社会福祉の研究に取り組んでいた木原さんの自信が、根本から揺るぐことになります。>
それは、今から25年前、大学院で学んでいた時、嶋田啓一郎先生という、著名なクリスチャンで、本当に尊敬できる先生だったのですが、その嶋田先生が、「キリスト者として愛するとは、愛することが出来ない自覚から始まる、愛のことだと思いますよ。それが世俗の福祉と違うんじゃないでしょうか」と。私は衝撃を受け、言葉を失った。「キリスト教は愛すること」と思っていたから。そのことに関する、その師との禅問答のような、私なりの答えは、“愛せないという自覚”というのは、ある種、自分の無力、弱さ、自分を明け渡す、降参する。信仰というのは、手を放した、正に弱さの自覚、自分の弱さを神様の前に申し上げた時にこそ、その弱さの中に神の力が現われる。これはパウロが伝えるメッセージですけど、それとつながって、「自分は出来るんだ」と思っている者は、実は他者からしたら、寄り付きがたい、「あの人は良い人だよね」とはならない。嶋田先生の言葉により挫折し、自己問答する中で、これまでの自分の信仰は、自己中心的・自力的な信仰だったとわかった。じゃ、自力をやめ、開き直って何もしないよというと、もっともそれはずるい人間と思うけれど、そうじゃなくて、だからこそ、私は神様から助けていただかないと、人を愛することもできない、そんな自己中心な人間。聖書でいえば、これぞ罪の本質。人を愛する力すらないんだ。神様の前に跪いて、自分はそんな存在だと。にもかかわらず、偉そうに「自分は世界を変える」。何かそんな烏滸がましい人間でした。神様どうぞお許しくださいという祈りを、若い時分に捧げたというのは、私の転換点でした。100%が神の恵みという安心感と、さらに安定させる信仰が、私自身の福祉哲学に色濃く現われてくることになった。

<ナレーション:1995年、広島の女子大学の講師に。ひとりの学生から相談を受ける。その相談が、自分が抱える苦しみや弱さを見つめる切っ掛けになったという。>
その学生は無表情で、だんだんと話したのだけど、「自分の父親が自殺した』という話。あまりにも大きな話。19歳という若い学生が、「先生、私どうしたら良いのでしょうか?」と。叫んでないのに叫んでいる、ということがある。がぁーっと言われたら、違ったかもしれないが、呻きだと思うんですが、正直何も答えられなかった。たぶん、「あなたに、どう言えば良いのか、わからないけど、一緒に考えようか」程度のことは言ったと思いますが……。私なりに、それがずーっと引っ掛かっておりまして、後から振り返って、何でそんなに重かったかなって、ありますよね。自分でも、整理ができない。私が戸惑ったのは、私自身、親しかった親戚が自殺している。25歳の時ですが……。そのことがあって、正に自分が問いたい。私も苦しみの最中だった。そんな自分自身の中にあっては、その問いと自分の苦しみが共鳴した。“compassion”“com”――共に、“passion” ――苦しみ、 “共に苦しむ”。共感すると言いますが、私は、“共苦”共に痛む。福祉においては、これがキーワードと思っている。そこには、傍観者や客観者的に「そうだったんですか、それは大変でしたね」とは言えない。自分の痛みがある。

<ナレーション:傍観者ではなく、共に痛みを感じ苦しむ人となる。木原さんがこの考えに至るようになった大本には、聖書に記された説話があります。強盗に襲われ、傷つき倒れた人に対して、多くの人が見て見ぬ振りをする中、助け起こし、介抱し、宿の手配までもする、ある旅人の姿を描いた一節です。>
聖書の物語の中でも、出てくる言葉に、良きサマリア人は「可哀そうに思った、憐れんだ」というのは、ちょっと日本語で読むと、「なんか可哀そうだから、ちょっと何かしてやろう」ということですが、そんな軽いことではなく、自分の体まで、断腸の思いで痛んだ、という感覚は、共に苦しむ、痛む。そういうところ。先程の話も、学生の話だったけれど、私自身の持っている痛みは、どうするんですかという、痛みと共鳴した。カウンセリングの世界では、自分を出してはいけないわけ。鏡のようになれ、とか言われて。今、私はそんな教科書通りではなく、自分の痛み・苦しみ・弱みを、むしろ、分かち合うことの中に、本当の光が見えてくるのではないか。もちろん、傷を舐め合うという関係ではなくて、分かり合うことの鍵になる。自分の傷とか苦しみとかが、相手の持っているものに反応する時間というものは、きっと、そういうところにある。最近読んだ聖書の箇所で印象的だったのは、イエスが十字架上で死んでしまった後、弟子たちが、これからどうなるか、と不安で仕様がなくなった時、“イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ福音書20:19-20)” こう言って、イエスは、その手と脇腹を彼らに示された。手と脇腹に何かあるかと言えば、生々しい傷ですよね。普通、痛々しい感じがするんですけど、弟子たちはそれを見て「喜んだ」と。イエスが現われ、痛ましい傷をお示しになったことに、真の慰めがある。(福祉の場合でも)援助者側が解決していない問題を、そこで対峙するのは危険だということは承知していますが、むしろ現代は、強い客観的な援助者像を見せて、それに終始しているのではないか。そうではなく、お互い苦しんで生きる存在として、苦しみを分かち合う、共に苦しむということに、ウエイトを置いて考えたい。

<ナレーション:強さや能力が求められる現代社会。しかし、全ての人が強い存在になれるわけではないし、弱さを抱えていない人などいない。木原さんは、人間それぞれが持っている弱さをお互いに認め合うことで、助けを必要とする人たちの尊厳が守られ、自立を支える優しい眼差しが生まれると考えています。>
弱肉強食というのは、現代社会にあります。福祉においても自立が言われます。“自立”は大事なことですが、一方で、弱くあった者が、社会の中で、強くあらねばならないと思い、強迫的に、必死に社会の歯車の中に付いていこうとする人間の姿。そして皆がそれに煽られていく。そんな強さに憧れる世相というものは、福祉社会にあっては、今キーワードになっている“尊厳と自立”の“自立”の方ですが、大事なことですが、自分で立てない人もいる。それでは、“自立”とは何か。弱さを認めた上での自立だといいが、強さ、あの人のようになれ、といった自立は、弱さに苦しむ人には、さらに追い詰めることになると危惧している。人間というものは、何かする(doing)ということで評価します。あるいは、having とか。それが世の趨勢です。しかし、存在する(being)ということで評価する。その人が存在しているということにおいて価値を持つ。これは、doingでいけば、出来なくなれば、捨てられるのかということ。何かを達成したから、その人を評価するのではなく、キリスト教的ですが、神の眼差し、存在に目を向ける。現代はますます、何かするということに目を向けるということがある。だからこそ、むしろ敢えて、今、弱さということを強調したい。それは社会の静かな変革につながってくると信じている。 弱さの向こうにあるもの、弱さを本当に認めへりくだる時、そこには必ず神様が臨在される。イエスが共に歩いてくださる。そのことをすごく、私は意識するようになりました。宮澤賢治が好きなんですが、『雨ニモマケズ』何度も読んでいるうちに思うのですが、意外とあまり紹介されないところですが、最後のところ。「ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、サウイフモノニ、ワタシハナリタイ」これが結びです。「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」というが、「ミンナニデクノボートヨバレ」と。「デクノボー」というのは、ウドの大木というか、役に立たないものの典型。しかし、宮澤賢治は“デクノボー”になりたいと。それは弱さであったり、役に立たないということは、現代社会においては、カッコ悪い生き方。こういう弱さや傷を負って生きる生き方こそ、「シャローム」と言って現われてくださるイエスの姿に重なって、スーパーマンになろうではなく、それから離れ、“デクノボー”の生き方の中に、現代が見失っている、強さとか、戦争、強くあらねばならない、そういう我々に、神様が聖書を通して呼び掛けている。一人ひとりに、愛されるべき存在として、私に立ち帰りなさいというメッセージが、呼び掛けられている。私においては、力まず、これからも、カッコイイ生き方はできないけれど、褒められもせず、“デクノボー”で良いと思っています。

【感想】やはり、ナウエンですよねぇ、ええ。

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