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2015年10月22日 (木)

【さとりへの道~華厳経に学ぶ】NHK Eテレビ『こころの時代』を見る。

【放映日】】20151018日(日)
  ※【初回放映日2014420日(日)
【タイトル
さとりへの道~華厳経に学ぶ 第1回「教えとともに」
【話し手】東京大学名誉教授…木村清孝
【聞き手】川野一宇
【語り手】高橋さとみ

釈尊のさとりへの道を独特な世界観のうちに説く『華厳経』を知る6回シリーズ。奈良・東大寺の大仏は、華厳経の中心的存在である盧舎那仏を表したものである。大仏の脚下にある蓮華の花びらには、美しく荘厳された仏の世界である「蓮華蔵世界」の姿が彫られている。第1回は、講師の木村清孝さんとともに東大寺を訪れ、経典の中で仏や菩薩たちによって説かれている「さとりへの道」を華厳経の言葉から学ぶ。

(大乗仏教の代表的な経典の1つ。―― 華厳とは「華で偉大なる仏のさとりの世界を飾ること。
華厳経では、生きとし生きるものが、さとりを開くために、如何なる道を歩むべきかが、説かれています。華厳経はどのようにして成立したか。今から2500年前、仏教は釈迦によって開かれました。
その後、仏教は大きく分けてふたつの道筋を辿って、アジアに伝わり、世界に広がる。出家者が中心の上部座仏教と、紀元前一世紀頃起こった大乗仏教に。大乗仏教は主にシルクロードを辿って広がる。その経典の多くは、北インドを中心にインド文化圏内で制作、編纂されました。その中のひとつ、華厳経は、4世紀から5世紀、中央アジアで成立。その後、アジア各地で広がる。5世紀初め、南北朝時代の中国に伝わる。今も残る仏教遺跡には、華厳の思想が見て取れる。世界遺産「顎門石窟」。洛陽の南方の崖側に、大小10万の仏像が彫られた遺跡。中心には盧舎那仏。右側に文殊菩薩。左側には普賢菩薩。この3仏像が「華厳三聖」言われ、華厳世界の中心的存在。華厳経においては、盧舎那仏は、さとりの瞑想にあるので、声は発しない。代わりに、仏の神力を得た菩薩たちの力により、さとりへの道が説かれる。8世紀前半、日本の奈良の地に伝わり、東大寺で教えが説かれたと言われている。

(ここから、映像が変わり、奈良東大寺。今回の語り手、木村先生登場。以下、先生のお言葉より、印象に残ったこと――)


(盧舎那仏を拝観しながら)
この仏様は、単に形が大きいということだけでなく、雰囲気というか、空気全体が大きく、暖かい。

 

(盧舎那仏は、サンスクリット語で、「ヴァイローチャナ=光の仏」を意味し、太陽の輝き照らす働きを神格化したもの。遍く照らし出す、真実の光に照らし出されて、どんな小さいものも、価値のある尊い存在となる)
手の佇まいと台座の蓮弁の絵柄が重要。詳しく言えば、色んな印相はあるが、この大仏の場合は、そんな細かい区別はいらない。この形を通して、人々を大きな手で、沈黙の中で、生きとし生ける者を仏の世界に誘っている。

 

(盧舎那仏は、28枚の蓮華座の中に坐していて、一枚一枚には、細かな彫刻が施されている。そこでは、あらゆるものが息づく壮大な世界が見られる。これが、華厳の世界観の中心となる「蓮華蔵世界」である。)

菩薩が、自らさとりを求め、と言っても、自分だけがさとるということではなく、生きとし生ける者すべてがさとり、救われる、それが大乗の考え方。さとりを求めて誓願を立て、その誓願の実現した世界が、「蓮華蔵世界」。

 

(微細世界即是大世界。取るに足らない小さな世界が、即ち大きな世界そのものである。すべてのものが何の差別もなく、宇宙大の価値を持っている。長きに亘って華厳経が伝えられてきたのも、こうした深い意味を伝える経典の言葉が、人々の心に届いたからではないか。)

大乗仏教の立場では、生きとし生ける者は、すべて仏の子どもである。だから、すべてが手を合わせられる対象となる。華厳経は昔から難しい、貴族的な経典と言われます。でも、実際は違います。もともと私は、哲学・倫理学など西洋を学ぶことから始めましたが、大学院に行きましてから、仏教を学びました。色々悩みもありましたし、苦しんだのですが、素晴しい恩師と出逢いました。さて、華厳経ですが、正しくは『大方廣佛華嚴経』。34品。七処八会。

 

(華厳経の中で、菩薩と神々とは、どう違うか?)

仏と菩薩の関係は、基本的に、正しい心を起こす=発菩提心、さとりへの心を起こして、実践。それをする人は菩薩。モデルは釈尊自身。その釈尊が、輪廻の中で、生まれ変わり死に変わり、さとりを求め、修行する姿が菩薩。神々は、仏典の中では、教えを守る存在。人々の安らぎを守る存在。経典では、盧舎那仏は直接教えを説かないので、代わって菩薩たちが教えを説く。神々たちは、その教えを守る存在。人々の安らぎを支える存在。(華厳経の中で、中心となる「教主」は、盧舎那仏。その盧舎那仏は、直接に教えを説かず、代わりに菩薩たちが教えを説く。神々は、その菩薩たちを褒め称え、讃歌を謳う存在でもある。

 

華厳経は、一気に出来あがったお経ではなく、既にあった大乗仏典の中から選びとって、更に付け加えたりした上で、全体として一貫したものとなるように編纂されたもの。故に、「集成経典」と言われる。

 

この経典を読む手掛かりとして、4つのパートにまとめた。

1. 盧舎那仏 不動のまま 地上から天へ 天から地上へ

2. 「蓮華蔵世界」を中心とする宇宙観

3. 哲学的思惟の豊かさ

4. 善財童子 さとりへの道を歩む

 

1. 盧舎那仏 不動のまま 地上から天へ 天から地上へ

文学的構想が関わっているが、本質的に、経典の中では、さとりを開かれた釈尊が、そのさとりの場から動かずに天上世界。三界説―― さとりにいたるまでにある世界を、欲界・色界・無色界と分ける説がありますが。その中の私たちが生きている欲界の4つの場に、釈尊がそれぞれ移動されて、そこを「会座(えざ)」というのですが、舞台として落ち着かれる。そして、それぞれの場に菩薩たちが登場して教えを説く。

 

(不動と言いながら、動いているのでは、という気もするのですが?)

瞑想の中で現われてくる世界。自分が移動する世界。釈尊は、パーリ語の涅槃経によれば、亡くなる時に、無色界に上がり、そこから色界に戻った後、また瞑想の世界に入られるという構想がある。瞑想の世界で生み出されてくる深い体験的なイメージの世界。それが次々と展開していくと考えれば良い。

 

2. 「蓮華蔵世界」を中心とする宇宙観

この世界は、蓮華蔵世界だけではない。「十方」(四方八方に上下を加えたもの)に世界があ り、その中心に蓮華蔵世界がある。こういう世界の生まれ方については、仏・菩薩・衆生の思いや力が関わり合う、働きあう中で、大宇宙ができている。蓮華蔵世界は、阿弥陀仏の西方浄土が十万億土の西方にあるが、華厳経では、そういう設定はしない。釈尊がさとりを開かれた、この場が、美しい浄土に変わる。現実世界がそのまま、そのまま本質的に言えば、蓮華蔵世界である。私たちの生きている世界、その真中に生きている。ただ気が付かないだけ。華厳経は、観想による宇宙的直観と科学的な見方の融合によって生まれた。

 

3. 哲学的思惟の豊かさ

常識的に物事を考える世界とは違う。そういう意味で驚くような命題の提示がある。例えば、小さな世界が大宇宙。小が大であるとか。一塵の中にすべての存在世界が含まれるとか。これらは、意識ではわからない世界。私どもの科学的思惟を一旦さらにする。人間を捉え直す時、参考になる教えである。

 

4. 善財童子 さとりへの道を歩む

華厳経最後の章、「入法界品」に出てくる話。一番有名なところ。善財童子という青年の修行を求める旅を描いたもの。文殊菩薩に師事し、その紹介で善知識を訪ねた後、その師からまた次の師の紹介を受けるという形で、次々に善知識を求めて歩く旅は、ある意味で私どもの人生を、理想的人生の在り方を示しているとも読める内容。

そこで、どんな師がいたかと言えば、菩薩が主役ではあるが、様々な神々も師として登場。出家者や仏教者とも限らない。外道(バラモンの宗教者)も登場し、また、お母さんのような、美しい女性も登場する。私どもは、自分の偏見や先入観で、「この人は偉い」「この人は駄目」と枠組みの中で見てしまって、あまり素直に接しない。善財童子の場合は、それがない。非常に素直に、こちらから何かを学び取ろうという姿勢がある。

 

(この人が、本当に正しい師であるかどうかを、見極める力が必要ですね)

それは必要だと思いますが、それを見極めようとしても、何かしたら見極める力が付くかというと、それは違う。朱に交われば赤くなるというが、自身がそれぞれ判断して、良い物に接する。良い人に接する。途中必ず失敗はあると思います。あってもいいです。あったとしても、そこでどう反省するか。仏教で言う「懺悔」することによって、こちらの心も整えられてくる。綺麗になってくる。

 

華厳の「厳」は厳めしいのではなく、厳(おごそ)かな方。

 

(最後に、華厳経の中から、仏へのさとりを示す言葉を見ていきます――)

 

「如来の清浄にして妙なる色身は、悉く能く顕現して、十方に遍ず」(世間浄眼品)

如来とは、真如の世界から来られるという意。仏と同じ。色身とは、私どもが五感で捉えられるお姿。仏はあらゆる世界に出現される。だから、私どもも、いつでも、どこでも、お会いできる可能性があるということ。私は仏を、化身観(三身観)――仏の身の在り方を、法身・報身・応身などに分ける見方はしたくなく、仏そのものとして捉えたい。

 

「一毛孔(く)の中に 無量の仏刹(せつ)あり 荘厳清浄にして 昿然として安住す」(盧舎那仏品)

一毛孔とは、とっても小さいもの。無量は限りない。仏刹は仏の国。昿然(こうねん)とは、ゆっくりと、広々と。安住すとは、安定して存在している。

 

また、「一一の微塵の中に、一切の法界を見る」という言葉もある。そこから、華厳経教学の中で、「一即一切。一切即一」という論理が完成する。

 

「心(しん)、諸(もろもろ)の如来を造る」(夜摩天宮菩薩諸偈品)

インド仏教の中心ともいえる、瑜伽行派の唯心説。この世界は心のみであるという考え方のバリエーション。すべては心から成るという。「心」とは、心身一如と言いますが、体験的なものも含めた、その「心」が、どのような方向に向いているのか、どのように鍛えられたか、育てられたか、そういうことによって、必ず仏となる働きをしていく、そういう意味。仏を造るのが心だよと。正しくどっちに心を向けるか、どういう心掛けをして毎日を生活していくか。そういうことが如来への道である。心を離れて仏はない。仏様は向こう側にある存在ではない。私自身が仏になる存在。可能性としては、既に仏である存在。それが華厳での捉え方。私どもは、因縁の中に生きていますから、時間の長短はある。しかし、どれほど時間が掛かるかわからないが、必ず誰でも仏になれる。というのが、華厳経の保障している世界。この一生に限りません。私どもが仏になるには、「三祇百大劫」という長大な、数えきれないほどの時間がかかるという説もある。これが、どんどん時間が短くなって、「一年成仏」「即身成仏」という考え方も生まれますが、それは本格的に捉えた考え方で、現実には、そう簡単になれるものではない。そうではあるが、いずれは成れる、必ず成れるというのを、仏教は共通して保障している。華厳経は、そのことを率直に明示している。釈尊の最後の遺言。「怠ることなく努め、励めよ」。正にそれ。それが行われることによって、必ず仏になる、ということを信じられることが、大乗仏教徒の基本。

 

【感想】
大学生の時、鈴木大拙師の愛弟子だった恩師から、「華厳経を読むように」言われ、明恵上人のことを教えていただいたことを、苦い気持ちで想起しています。ずぅーっと、
離れた状態でしたが、重い腰を上げ、書棚の奥から『仏教の思想6 無限の世界観<華厳>』(角川書店)と『明恵 夢を生きる』(河合隼雄/講談社+α文庫)を持ち出し、読む。

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